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2pacが死んだ本当の理由とは?:前編

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2pacは1996年drive-by(車に乗った状態で銃撃する襲撃手法)によって殺害され、25歳という若さでこの世を去りました。
人気絶頂のラッパーが殺害されたということで全世界のhiphopファンは大きな衝撃を受けました。

ここでは2pacが射殺されるまでの経緯を解説します。
世間一般的に語られている情報よりはより深く記事を書いています。
この記事を読めば2pac射殺までの経緯を理解することができるはずです。

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【はじめに】2pacとは

2Pac(本名:Tupac Amaru Shakur)は、アメリカの有名なラッパー、ソングライター、俳優でした。
彼の音楽は影響力があり、ヒップホップ文化の中で重要な存在です。

  1. 生い立ち: 2pacは1971年にニューヨークで生まれ、カリフォルニア州のオークランドで育ちました。彼の名前はペルー独立戦争の指導者、トゥパク・アマル2世に由来しています。家族はアフリカ系アメリカ人とブラック・パンサー党の活動家でした。
  2. 音楽キャリア: 2pacは若い頃から詩を書き、詩の朗読として音楽キャリアをスタートしました。彼は後にデジタル・アンダーグラウンドやデジタル・アンダーグラウンド・アンセムズなどのアルバムで成功を収めました。彼は政治的なテーマや社会問題についても歌詞に取り組み、リリックには犯罪、人種差別、社会的不平等などのテーマが多く含まれています。
  3. アクターとしてのキャリア: 2acは音楽の成功の他にも俳優としても知られており、映画『ボーイズ・イン・ザ・フッド』や『ジュース』などで演技しました。彼はその演技力により、映画業界でも注目されました。
  4. 衝突と事件: 2pacは数々の法的問題や銃撃事件に関与し、これらの事件が彼の生涯とキャリアに影響を与えました。特に、彼は東海岸のラッパーとの対立が知られており、東西コーストヒップホップの対立(東海岸対西海岸対立)に巻き込まれました。
  5. 暗殺: 1996年9月7日、2pacはラスベガスで銃撃され、6日後の1996年9月13日に亡くなりました。彼の死の詳細は複雑で、未解決のままです。彼の死後も人気は衰えていません。

2Pacはその詩的な才能、政治的な意識、独自のスタイルによりヒップホップカルチャーに多大な影響を与えました。


【重要】2pacは東西抗争が原因で射殺されたと思ってる人が多い

上記の経歴が、世間一般的に認知されている2pac生涯です。
特に東海岸と西海岸の抗争の末に射殺されたと思っている人が多いですが、少し誤解があるようです。
【直接的な原因】は東西抗争ではなく、別の要因があります。
少し長くなりますが、死に至るまでを詳しく解説いたします。
複雑な人間模様が絡み合い、最悪の結末を招きますがその生涯は非常に興味深いものです。

ニューヨークからカルフォルニアへの移住

2Pac(Tupac Shakur)がニューヨークからカリフォルニアに移住した主な理由は、音楽キャリアを追求し、ヒップホップ業界で成功を収めるためでした。

  1. 音楽キャリアの開始: 2Pacはニューヨーク市で生まれましたが、彼の音楽キャリアはカリフォルニア州で本格的にスタートしました。彼がニューヨークで少年時代を過ごし、高校卒業後にヒップホップのパフォーマンスを始めましたが、本格的な成功を収めたのはカリフォルニアでの活動からでした。
  2. 【1989年(18才)】デジタル・アンダーグラウンドとの出会い: デジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)というヒップホップグループの一員としてカリフォルニアに移住しました。彼はこのグループで初めてのレコーディングと舞台経験を積み、音楽業界への足場を固めました。
  3. 【1991年(20才)】ソロキャリアのスタート: カリフォルニアに移住後、2Pacはソロアーティストとしてのキャリアをスタートさせ、デビューアルバム「2Pacalypse Now」をリリースしました。このアルバムは議論を呼び起こし、2Pacを注目のアーティストとして浮上させました。
  4. 【1995年(24才)】レコードレーベルとの契約: 2Pacはカリフォルニアでの活動を通じて、音楽プロデューサーのデイヴィッド・マークスマンと出会い、Interscope RecordsとDeath Row Recordsとの契約を結びました。これが2Pacの音楽キャリアを一層推進し、多くのヒットアルバムを生み出す契機となりました。

総括すると、2Pacはカリフォルニアに移住し、西海岸のヒップホップシーンで成功を収めるために、音楽キャリアを積極的に推進しました。カリフォルニアでの活動が彼のキャリアにおける重要な要素となり、彼の音楽は西海岸ヒップホップの一部として広く認識されています。

The Notorious B.I.G.との友好関係(80代後半~1994年頃まで)

2Pac(Tupac Shakur)とThe Notorious B.I.G.(通称ビギー/Biggie Smalls)は、ニューヨークのヒップホップシーンで出会います。

この記事をご覧になってるほとんどの方には説明不要かと思いますが、ビギーについては下記。

1972年にニューヨーク市ブルックリンで生まれのラッパー。
1994年デビューアルバム「Ready to Die」をリリースし、これが大ヒットしました。
このアルバムはヒップホップ史上でも最も影響力のあるアルバムの一つだと思います。
ビギーは東海岸出身のアーティストであり、2pacやその他の西海岸アーティストとの対立が話題となりました。
ビギーは1997年3月9日にロサンゼルスで銃撃され、亡くなります。
彼の死は未解決のままです。
ビギーはラップスキルとストーリーテリング能力、ブルックリンのストリートカルチャーに根ざしたリリックで、ヒップホップのアイコンとして現在でも称賛されています。


彼らの最初の出会いは、1980年代末から1990年代初頭にかけてのニューヨーク市のヒップホップシーンでした。
当時、2Pacはデジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)の一員として音楽活動を始め、ニューヨークで公演を行うなどして華々しいキャリアを築いていました。
一方でThe Notorious B.I.G.(通称ビギー)はニューヨーク・ブルックリン出身で、彼も地元のアングラヒップホップシーンでラップキャリアをスタートさせていましたが、2pacに比べてまだまだ無名のラッパーでした。

彼らの中が急接近するのは、1993年にビギーが仕事でロサンゼルスを訪れた際に、地元のドラッグディーラーに2Pacを紹介されビギーは仲間と共に2pacの自宅でパーティーをします。
そこでドラックをキメてラリって飯を食ったり、2pacが銃を見せびらかすなど乱痴気騒ぎをして彼らは本当に仲良くなりました。ビギーは土産にヘネシーを貰ったようです。

良好関係は続いていき、ビギーはカリフォルニアを訪問するたびに2pacの家で寝泊まりし、2pacがニューヨークを訪れた際は、白いリムジンでBiggie宅に乗り付け、地元の仲間たちとギャンブルに興じていた。1993年には、マディソン・スクエア・ガーデンで開催された「バドワイザー・スーパーフェス(Budweiser Superfest)」でふたりはフリースタイルを披露しています。

1994年にビギーはアルバム『Ready to Die』発売しますが、不安を抱えていたといいます。
それはリリース元のBad Boy Records(プロデューザーであるショーン「パフィー」コムズ (Sean “Puffy” Combs) が立ち上げたレーベル)が、スタートしたばかりでキャリアも浅く運営がスムーズに行われていなかったのです。「2pacなら、彼が凄い勢いでキャリアを形成したように、俺のキャリアも押し進めてくれるのではないか」と期待し、2pacに自身のマネージメントを依頼しています。
しかし2pacはマネージメントの依頼を断り、
「パフィーと一緒に頑張れ。アイツならオマエをスターにしてくれる」と返答しています。
このエビソードからもビギーがいかに2pacを慕い、信頼していたことが伺えます。

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2pacとギャングとの関わり

2pacは、1994年に公開される「Above the Rim」という映画に出演します。
この映画は、バスケットボールとストリートライフを中心に描いており、ヒップホップカルチャーと密接に結びついています。
彼は映画の中でギャングの構成員、バーディー(Birdie)を役を演じたが、そのモデルは実在するハイチアン・ジャック(Jacques “Haitian Jack” Agnant)というプロデューサー兼プロモーターであり、裏社会の人間でもありました。


2pacは彼と知り合ったことでNY,クイーンズの裏社会との関係を深くしていきます。
既に大金を稼ぎ、NYの裏社会を支配していたハイチアン・ジャックと関係を深めるにつれ、2pac自信も自分は無敵だと考えるようになります。
NYのギャング事情を知っていたビギーも2pacに「あいつはヤバいから近づかない方がいい」と忠告をしましたが、聞く耳を持たなかったようです。

クリーンズのギャングと関係悪化

1993年の11月、2pacはハイチアン・ジャックと、Nell’sというマンハッタンのクラブでパーティを開きました。そこでアヤナ・ジャクソンという女性と知り合います。
その4日後、彼女は再び2pacに会うためホテルに行きますが、部屋にはハイチアン・ジャックと、2pacのロードマネージャー、チャールズ「マンマン」フラー ( Charles “Man Man” Fuller) 、そして全く知らない男もいました。
彼らは彼女をレイプし、性行為を強要したとされとされています。


この裁判で2pacは司法取引を行い、事件について証言をしましたがハイチアン・ジャックをかばうような発言をしなかったようです。
さらに2pacはニューヨーク・デイリー・ニュースのレポーターに、「ハイチアン・ジャックにはめられた」と発言したことにより、ハイチアン・ジャック(クイーンズのギャンク)との関係が悪化していきます。

クイーンズで迷彩男達に銃撃されビギーへの敵意を固める

裁判の弁護士費用を払い続け、さらには親族のためにお金を払い続けていた2pacですが、いよいよ金が尽きてきます。
金を稼ぐために、ハイチアン・ジャックから紹介されたジミー「ヘンチマン」ロズモンドがマネージメントをしているリトル・ショーン(Little Shawn)というラッパーの曲に参加し、ギャラをもらうことを決意します。(ギャラは7千ドルと言われています。)
リトル・ショーンはBadBoyRecordsのパフィー、そしてビギーとも親しいラッパーでした。

1994年11月30日、2pacはリトル・ショーンとの曲作りを行うため、キマりきった状態で、タイムズスクエアにあるクワッド・レコーディング・スタジオに向かいました。
2pacはボディガードをつけずに3人の仲間とスタジオに行き、ロビーで迷彩服を着た3人の知らない男たちと鉢合わせます。
ビギーの出身地であるブルックリンのワル達に流行っていたスタイルだったので、2pacは迷彩男達を「ビギーの仲間たち」いるんだというくらいしか思っておらず、特に気にしていませんでした。
同じStudioにいた、ビギーの仲間であるラッパーのリル・シース (Lil’ Cease)とも出会い、「ビギーはとパフィーも一緒にいがレコーディング中だと」という会話もあり2pacは何も疑わず、リトル・ショーン達が待つスタジオに向かいます。

2pacと仲間たち3名はエレベーターに乗り込みますが、例の迷彩男たちが襲いかかり、銃を突きつけ床に伏せるよう3人に命じます。
2pacは命令に背き、自分の銃で反撃をしようとしましたが先に撃たれてしまい、その後もボコられ続け、ジュエリーも奪われてしまいます。
軍服男達が去るまで死んだふりをしてなんとかその場をやり過ごして、レベーターに乗りなんとか録の部屋に辿り着きました。
ドアを開けるとパフィー、ビギー、ヘンチマンがいたが、連中の顔には驚きと後ろめたい気持ちが滲みでていた、と2pacは描写したが、パフィーは、「彼が本当に心配だった。そこには愛情しかなかった」と回想しています。

2pacはこの襲撃事件をただの強盗だとは考えませんでした。
「犯人は、俺に対して敵対心をもっていた」と感じ、頭、玉袋を含め5発の銃弾を受けたと主張した。
(2pac自分で撃ったのではないかという疑惑もある)

この事件の捜査に参加したニューヨーク警察署の元警察官ビル・コートニー (Bill Courtney) は「2pacがニューヨーク・デイリー・ニュースで吐いたハイチアン・ジャックに対するコメントへの報復だろう。名前を出すな、非難するな」というメッセージであると推測しています。
そしてヘンチマンも、「盗むためではなく、懲らしめるためだった」と2005年に『VIBE』誌で告白しています。(その後、ヘンチマンは、自らが事件の首謀者だ、と名乗り出たが、事実は定かでない)

当然ながらその場にいたパフィー、ビギー、そしてハイチアン・ジャックはこの件への関与を否定しました。(ハイチアン・ジャックは、2007年、別件で有罪となり、ハイチに強制送還された)

ついに、ビギーと完全に決別。ニューヨーク勢と壮絶なBeefに突入

1994年12月1日、ニューヨーク市の法廷に、包帯を巻き、車椅子で現れた2pacは、アヤナ・ジャクソンへの性的暴行で有罪となったが、肛門性交の強要、銃器不法所持容疑については罪を問われなかった。
1年半から4年半の禁固刑、保釈金は300万ドル(当時の為替レートで約3億600万円)の判決をうけた。

金欠状態であった2pacは保釈金を集めらず刑期のほとんどをニューヨーク州アップステートにあるクリントン・コレクショナル・ファシリティ刑務所を過ごしました。
彼のサードアルバム『Me Against the World』は、彼の服役後すぐにリリースされたが、2pacは今作をキャリア最後のアルバムにしようと考えていました。しかし、ある噂が耳に入ると、彼の音楽への情熱は再び燃え始める。彼が信頼する筋から耳にした噂だった。

「ビギーは、クワッドスタジオの襲撃について事前に知っていた」

「アイツが今こうしていられるのも、すべて俺のおかげだ。それなのに俺が殺されそうになっても知らん顔していた。もしビギーが仕組んでなかったとしても、誰がやったかくらいはわかるだろ? オマエのホームタウンで俺を撃ったヤツがわからないって? オマエのホームタウンのヤツらだぞ!」

2pacは、自分が信頼していた人物が富と名声を勝ち取るために自分を友達が裏切ったと判断し、強い怒りを覚えます。

さらに偶然にもビギーはこの銃撃事件のあとに「Who Shot Ya?」(誰が撃ったんだろうな?)という曲をリリースしたことにより2pacはビギーとBadBoyをターゲットとすることを決意します。

後編へつづく

2pacがhiphop東西抗争で死んだというのは間違い:後編
2pacの思い込みにより、東海岸(パフィー、ビギーが所属するBad boy Records)との関係が悪化していきますますが、ある男との出会いによりさらに運命は悲劇的な方向へ進んでいきます。 前編はこちら。 悪名高きDeath Row Re...

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