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まとめ・雑談・解説ラッパー雑談

2pacがhiphop東西抗争で死んだというのは間違い:後編

まとめ・雑談・解説
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2pacの思い込みにより、東海岸(パフィー、ビギーが所属するBad boy Records)との関係が悪化していきますますが、ある男との出会いによりさらに運命は悲劇的な方向へ進んでいきます。

前編はこちら。

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悪名高きDeath Row Recordsのシュグ・ナイトと出会う

2pacはアヤナ・ジャクソンへの性的暴行の罪で服役中にケイシャ・モリス(Keisha Morris) という女性と結婚します。
彼女を通じて「金がないから助けてしほい」というメッセージを、悪評絶えないロサンゼルスのレーベル、Death Row Recordsのシュグ・ナイト (Suge Knight) に送りました。
その時、2pacは弁護士費用も払えず、母親のも家を失うほど追い込まれていました。
メッセージを受け取ったシュグはすぐに1万5千ドルを送金しました。
その対応に大喜びした2pacは「お前に会いたい」というメッセージを再びシュグへ送りました。
シュグはロサンゼルスから遠く離れたニューヨーク州の刑務所へ面会に出向きます。
面会でシュグは「Death Row Recordsからの作品リリースを交換条件に保釈させる」と2pacと約束しします。
これにより2pacはシュグ(Death Row Records)から離れられなくなると同時に、Death Row Recordsの背後にあるギャングと関わりを待つことになります。
シュグ・ナイトはMob Piruというギャングのメンバーでありました。
ちなみにMob(money over bithes=金が全て)と意味でPiru(パイル)はBloodsの2次団体です。

この出会いが2pacの運命を決めた人生のターニングポイントです。

東海岸VS西海岸hiphop抗争の幕開け

1995年8月にシュグは2pacとの面会に訪れます。
そこで2pacはシュグに「俺の襲撃に関わったBad Boy Records潰しを手伝って欲しい」と懇願します。
シュグ「お前の敵は、自分の敵だ」と答え、面会が終わるとすぐにその足で、マディソン・スクエア・ガーデンのパラマウントシアターで開催されるThe Sourceヒップホップアワードに出席しました。

Death Row Recordsは、このショーのオープニングに、10万ドルをかけて実物大の独房を制作しパッフォーマンスを行いました。

そのアワードではDeath Row Recordsがリリースした『ビート・オブ・ダンク』(Above the Rim/ 1994)のサントラが同アワードのベストサウンドトラック賞に選ばれ、シュグは胸を張ってステージにあがりスピーチを初めます。
そこで突如してビギーのレーベルであるBad Boyのパフィーに対し、いきなり暴言を吐き始めたのです。
自分のアーティストの音楽でアドリブを入れる癖や、自分のアーティストの音楽ビデオに多数のカメオ出演をすることを批判するものでした。

「どんなアーティストもアーティストのままでいたいだろう。スターでいたいんだ。レコード、ビデオ、ダンス、なんにでもでしゃばるエグゼクティブ・プロデューサーに思い悩む必要ない。アーティストでいたいヤツはDeath Rowに来ればいい」と痛烈に批判を口にしました。

何の前触れもなくシュグがいきなりあんな暴言を吐いたことを皆が不思議に思い、会場はシュグへの非難で包まれました。
実際はシュグとパフィーはの関係はうまくいっていたのですが、2pacがシュグにBadBoyRecordsへの攻撃を仕掛けるように信じさせたのは事実です。
ビギーやパフィーが、トゥパックの襲撃について事前に知っていた、という証拠はありませんが、こうして東西抗争の幕が上がってしました。

一方で突然の批判を受けたパフィーですが、これがきっかけで自身のBadBoyCrew(仲間)の分裂を避けるため、シュグ・ナイトが批判したのはパフィーではなく「アトランタのSo So Def Recordingsのトップであるジャーメイン・デュプリのことである」という発言をして政治的に立ち回り、仲間内での混乱を回避しました。
パフィーはこのときから政治的かつ戦略的な立ち回りをしていました。

Bad BoyのボディーガードがDeath Rowのメンバーを射殺

1995年9月24日、アトランタのナイトクラブ、プラチナム・ハウスで行われたジャーメイン・デュプリの誕生日パーティーで、シュグ・ナイトをパフィーを平手打ちする事件が起こります。
その日の夜にBad Boy Recordsの一団がシュグ・ナイトの友人でBloodsギャングのメンバーでありDeath RowのボディガードでもあるJai Hassan-Jamal “Big Jake” Roblesとの乱闘が発生。
数分後、クラブ外でパフィーの幼なじみであり自身のボディガードであるAnthony “Wolf” Jonesがリムジンに乗り込もうとしていたBig Jakeに発砲し、殺害する事件が起きてしまいます。
パフィの弁護士はその夜にはパフィーとボディーガードと一緒にいなかったためその日の事件に関与していないと主張しましたが、シュグは執拗にパフィを非難し、さらに敵意を持ちしました。
この事件からも分かるようにシュグはギャングを自身のレーベルに雇い、働かせていたことが分かります。

2pacが東海岸のラッパーを批判しまくるDis曲を次々にリリース

1995年10月、ナイトは再び刑務所に2パックを訪ね、140万ドルの保釈金を支払いました。
約束の通り2パックはDeath Rowからアルバムを出すために音楽活動を再開します。
1996年6月4日に『Hit ‘Em Up』というHiphop史上、有名で最も酷いDis曲をリリースします。
クワッド・スタジオで強盗に襲われ、銃撃されるように仕向けたとして一方的に敵意をむけていたパフィー、ビギーと関係が深かったジュニアM.A.F.I.Aだけではなく、
Mobb Deep, Jay-Z, A Tribe Called Quest, De La Soul, Jimmy Henchman, the Fugees and Nas.までもDisする曲でした。

Fuckを連発し暴言で埋め尽くされた酷いリリック、後半に至ってはラップというより叫びに近い曲となっています。
(Lyricに興味がある方はこちらから)https://genius.com/2pac-hit-em-up-lyrics

これに対して、ビギーは一切アンサーを出すことはなく沈黙を貫きました。
ビギーとしてはこの仲違いを解消したいと考えていたようであり、直接2pacと会話をし解決を願っていたようです。

参考:https://hiphopdna.jp/news/13512

2pac、ギャングの世界に足を踏み入れ戻れなくなる

ギャングスタラップというジャンルはご存知かとかと思いますが、本当にギャング・メンバーであるラッパーはほとんどいません。
有名なところでいうとNWAのIce Cube、Dreはギャングメンバーではありません。(Eazy-Eはの関係者だった)
なぜギャングスタラップが流行ったかというと、「ギャングのふりをしてラップをするとレコードが売れるから」ということです。
話は戻りますが、2pacは本来ギャングではありませんが、ギャングに資金に流れているDeath Row Recordsに所属したことによりBloodギャングとの関わりが増えていき、彼もギャングメンバーのような振る舞いをするようになっていきます。Death Rowはまさにギャングのフロント企業でした。メンバーのほとんどがギャングメンバーでスタジオで仲間が殺されることもあり、犯罪集団でした。
シュグ・ナイトの意向もあり2pacは東西抗争という大義名分を利用し、Bloodsのプロパカンダに利用されていきます。当然ながら、敵対するCripsからしたら面白いわけがありません。

当時からギャングスタ・ラップをしているが、本物のギャングとは関わりを持たないというのが常識でした。
当時のDeathRowでレーベルメイトであったDaz Dillingerも2pacに対して忠告してたと言います。「Pac、お前はブラザーだしお前を愛してるけど、俺らの関係にギャングを持ち込まないでほしい。ギャング関係で俺らの関係を仲違いさせたくない。
シュグがPacにさせようとしていることを見ていたし、彼を暴力の世界に入れようとしていたからな。結局Pacはギャングの世界に足を取られたんだけど、Pacはギャングの”政治”を知らなかったんだ。」
このようにギャングとは関わりはメリットがないというのはラッパー側が意識しているのが分かります。

参考:https://playatuner.com/2018/02/daz-dillinger-2pac-deathrow/

2pac、射殺までのカウントダウン

1996年4月某日、オーランド・アンダーソン率いるsouth side Compton cripsのグループが、レイクウッド・モールでシュグ・ナイトが所属していたギャングのMob Piru Bloodsのメンバーであるトレボン・レーンを襲撃しする事件が発生します。
口論中にアンダーソンはトレボン・レーンが身につけていたシュグ・ナイトからの贈り物であるの金のデス・ロウ・レコード・ゴールドチェーンを盗んでいきました。ギャングにとってチェーンとは尊厳を示すものでそれを盗まれるというのはギャングにとっては屈辱でしかありません。


その事件の後、1996年9月7日に2pac、シュグ・ナイト、そしてチェーンを盗まれたレーンとDeath Row Recordsの数人仲間達は、ブルース・セルダン対マイク・タイソンのボクシング試合を観戦するためにラスベガスにいました。
試合後、Death Row RecordsがMGMグランドホテルのロビーを歩いていたところ、レーンがcripsのアンダーソンを発見します。レーンが2pacの右耳に何かをささやいた後、2pacはアンダーソンのところへ行き、「お前はsouth sideのcripsか?」と尋ねた後、2pacはアンダーソンを殴って地面に叩きつけ、そのままDeath Row側の一団もアンダーソンを取り囲み殴り続けました。
アンダーソンはなんとかその場から逃げ出し、cripsの仲間たちが待つホテルに帰ります。

MGMホテルでの乱闘については動画も残っています。

2pac銃撃される ※ここからは憶測ですが犯人についても記載します

Death Row Recordsの一団に襲われたアンダーソンはMGMの警備員とラスベガス警察から告訴状を提出するよう説得されたが拒否しホテルに帰ります。
アンダーソンと仲間のsouth side Compton cripsのメンバーは、クラブ662で予定されていたパフォーマンス後に2pacを射殺することを決めたと言われています。

マイク・タイソンの試合を観戦した数時間後、2pacはシュグがオーナーを務めるクラブ662へ向かっていました。
彼らの車が赤信号で停まった際に、白いキャデラックが彼らの隣に止まり、キャデラックに乗っていた人物から銃撃され、2pacは4発被弾、南ネバダ大学医療センターに運ばれます。
なお同乗していたジュグは大怪我を負いますが一命をとりとめます。

2pac 死去

銃撃から6日後の9月13日死亡。享年25歳でした。

関係者その後・・・

・オーランド・アンダーソン

2pac殺害後、south side Compton cripsのメンバー2pac殺害を祝い、コンプトンではブラッズとクリップスの間でギャング抗争が激化しました。
9月9日以降、12件の銃撃事件が発生し、3名が死亡しています。オーランド・アンダーソンは10月2日にコンプトン警察に逮捕され取り調べを受けたが、殺人に結びつける実質的な証拠が不足していたために釈放されています。

1998年5月29日、アンダーソンとその友人マイケル・ドーローは、Corner Poccet Compton Cripsのメンバーと抗争が発生し銃撃戦の末、死亡しています。

2009年、グレッグ・ケーディング 刑事が主導する警察の捜査により、白いキャデラックの乗員はsouth side Compton cripsのメンバーであり、銃撃犯はオーランド・アンダーソンであることが判明しています。

・The Notorious B.I.G.

2pacとの和解を望んでいたビギーですが、2pacが死んだことにショックを受けていました。
また彼が2pacを殺すように依頼をしたのではないと噂が流れるこたこともあり、彼は西海岸側の報復を恐れていました。
1997年3月8日、ビギーはソウル・トレイン・アワードのアフターパーティーに出席しました。
ゲストには妻のフェイス・エヴァンス、アリーヤ、さらにbloodsとcripsのギャングのメンバーも参加していました。
その夜遅く、午前12時30分、パーティーが終了した後、ビギーは2台のGMCサバーバンで側近とともに出発し、ホテルに戻りました。
午前12時45分頃通りはパーティーから帰る人々で混雑しておりビギーが乗ったSUVはパーティ会場から50ヤード(46メートル)離れた赤信号で止まったところ、黒いシボレー・インパラがその横に止まりました。
インパラの運転手は、青いスーツと蝶ネクタイをした身元不明のアフリカ系アメリカ人男性で、窓を開け、9mmのピストルを抜き、ビギーの車に向けて発砲しました。4発の弾丸が命中し、ボディーガードがビギーをシーダーズ・サイナイ医療センターに搬送し、医師らが緊急開胸手術を行ったが、午前1時15分に死亡しました。ビギー24歳でした。

・シュグ・ナイトとDeath Row Records

シュグ・ナイトは2pac射殺の当日、MGMグランドホテルで敵対するギャングのメンバーに暴行しているところをビデオに撮られていたことにより、仮釈放規則違反で4年半収監されます。

Death Row Recordsにいたドクター・ドレーは2pacの死の直前にデス・ロウ・レコードを去り、その2年後にスヌープ・ドッグも続いてレーベルを脱退。レーベルは急速に衰退していきます。
一方、シュグ・ナイトはギャングメンバーを雇用するだけでなく、ビジネス上の取引で頻繁に脅迫や暴力を用いたという疑惑が高まり1990 年代後半から 2000 年代前半にかけて、暴行の有罪判決と、それに伴う保護観察と仮釈放の違反により数年間投獄されました。
さらに2018年9月、ナイトは2015年のひき逃げ致死事件に関する罪で懲役28年の判決を受け現在も服役中です。(2023年現在)

モブ・ピル・ブラッズというギャングに所属していたシュグは、このギャングのメンバーを雇い、さらに他の 2 つの Blood セット(ギャングの支部のようなもの)、Fruit Town Piruと Lueders Park Piru のメンバーも雇用していました。2000年代初頭までに、モブ・ピルとフルーツ・タウン・ピルの間で抗争がありその結果シュグの側近が数名が死亡しています。

所属アーティストの脱退によりDeath Row Recordsは2006年4月4日に破産。
その後、様々な企業の買収、売却がありますが、2022年にSnoop DoggがDeath Row Recordsの権利を買い取りオーナーとなっています。

2pac生存説

2pacが死を偽装したのではないかという陰謀論もあります。アルバム「Life Goes On」でTupacは自分の葬儀についてラップしたり、「I Ain’t Mad at Cha」は彼が死んだ2日後にリリースされたこともありファンが生存説を唱えていました。
2012年にキム・カーダシアンが目撃するなど、トゥパックの死後、何度かトゥパックの「目撃情報」の可能性が報告されていますが。。。信じるか信じないかはあなた次第です。

2pacが射殺された原因

ここまでの経緯から、2pacが射殺された直接的な原因はhiphop東西抗争ではなく、
「ギャング抗争」の結果、射殺されたということが分かります。
さらに言うのであれば、彼はギャングではなかったですがシュグ・ナイトの影響もあり
bloodsメンバー気取りの振る舞いをした結果、cripsの反感を買い殺されました。
東西抗争のロサンゼルスではギャング同士の抗争は日常的に起きており、2pacは抗争で死んだ
bloods関係者の一人にすぎません。

余談:2pacという男について(個人的感想です)

ここからは完全に私の個人的な意見です。
2pacの音楽的才能、カリスマ性は間違いないです。
ただ、Death Rowに加入したことでギャングと暴力を音楽業界に持ち込み、Hiphopの負の部分を助長させたラッパーであると思います。(シュグ・ナイトに脅されていたかも知れないですが)

一方的な勘違いからBadBoy Recordsのみならず東海岸勢を攻撃したことも、理解不能で自己中心的な行動で合ったと思います。
その結果、明らかな報復でThe Notorious B.I.G.が殺されたこともあり、彼の罪は大きと思います。

彼が殺された要因としてはギャングとの関わりが大きいのは間違いありません。
繰り返しになりますが、彼は正式なギャング・メンバーではなく、ギャングのフロント企業であるDeath Row Recordsに所属したことでギャングと関わりが増えたことで、ギャングの振る舞いを真似したり、楽曲の中でギャング(Bloods)のプロパカンダを繰り返していました。
ギャングスタ・ラップは金になるというのはその時代では当たり前でしたが、彼はギャングの世界に入り込みすぎた「身から出た錆」と言わざるをえません。

2pacは本物のギャングスタのシュグといることでギャングを演じていたにすぎません。本物のギャングは貧困から逃れるためにギャングになるのですが、これは裕福であったのにギャングの真似をしていました。本物のギャングからどう思われていたのでしょうか・・・

・ギャングを演じた2pacがしていた勘違い

ここからは本当に細かいところなんですが、面白い話題でもありますので興味がある方は読んでみて下さい。

2pacが良く口にしていて有名になった「West side(ウエッサーイ)!」という単語ですが、彼がギャングの世界がよく分かっていなかったのかなぁと思う部分です。

「ウエストサイド」の意味は当然ながら、ある地域においての「西区」「西側」という意味です。
日本人のHiphopリスナーでも勘違いをしている人もいるんですが、ウエストサイドは西海岸(ロサンゼルス)という意味はありません。西海岸と言いたいなら「ウエストコースト(Westcoast)」です。

話しを戻して「ウエストサイド(west side)」という単語ですが、ロサンゼルスのギャングにおいては重要な意味があります。
当時のロサンゼルスのギャングの世界でいう「ウエストサイド」とはmサウスセントラル(以下「ウエストサイド」)というエリアを東西分ける110thフリーウェイの「西側」をウエストサイドと呼んでいました。
そのエリアにはウエストサイド・クリップス、その後はローリン・60sやエイト・トレイ・ギャングスターズなどのクリップス有数の武闘派二次団体が縄張りにしていた地域であり、ギャングの縄張りとして最も有名なエリアを指して「ウエストサイド」と呼んでいました。
簡単にいうよとロサンゼルスのギャング界では名の通った地区をウエストサイドといっていました。

ニューヨーク育ちの2pacはこのロサンゼルスの「ウエストサイド」についてあまり理解ができていなかったと思います。彼はギャングでもありませんし、Death Rowが縄張りとするComptonでもこのウエストサイドには何の縁もありませんでしたが、当時のギャングスタラップのブーム禍で「ウエストサイド」という聖地の名を借りて自身をギャングであるかのように取り繕っていたのではないかと感じてしまいます。
MGMホテルでcripsに対して襲いかかったのもギャングに対しての認識が甘さからくるものでした。
Comptonのギャングは相手を選びません、有名なラッパーだろうと必ず報復をするのがComptonのギャングなのです。

最後に、2pacというカリスマが若くして亡くなったのは非常に悲しい出来事でした。
ギャングスタ・ラップはあくまでエンターテイメントであり、このような悲劇が怒らないよう願うばかりです。

2pacについてのドキュメンタリー作品

「未だ犯人の特定に至っていない2pac殺人事件の背後では何が起こっていたのかを調整したアメリカのドキュメンタリーです。非常に面白い内容なので是非とも視聴してみてください!

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